霞ヶ浦の概要&生い立ち
第2章 霞ヶ浦を知る
第6話 洪水の歴史(江戸〜明治編)

H:(桜町?!で)少しはもてるようになったかい?

シ:いや〜、最近忙しくてさ〜。寝る時間もないくらいだよ。

H:あれっ? この間も大福食べた後ずっと寝てなかったけ?

シ:ごほっ! そんなこといいからもっと霞ヶ浦のウンチク教えてよ〜。

利根川東遷事業により、さらに水害が頻繁に起きた霞ヶ浦周辺の稲作は、
「三年に一度収穫出来ればよいほうだ」
といわれるほどであった。



江戸時代には記録的な洪水は17回にもおよび、
なかでも最も被害が大きかったのは1786年の天明の洪水で
各所で破堤し、江戸の町までも浸水した。
土浦では一ヶ月以上も湛水し、
霞ヶ浦周辺、水郷地帯、銚子口では、
吐ききれない洪水が長期にわたって被害をもたらした。

古くから霞ヶ浦の洪水水位を低下させるための方策は、
もちろん考えられてはいたが、
当時の土木技術ではそれらの方策の実現は困難であった。

その中でも江戸時代末期から明治にかけて、
鰐川干拓地から鹿島灘へ通ずる放水路居切堀(堀割川)は、
霞ヶ浦の洪水を利根川本流の水位に影響されずに
放流する計画であった。

しかし、この開削によって農業用水が枯れたり、
河口部が漂砂で埋まるなどの障害が生じ、
期待していたような成果は得られなかった。
そのために用水堀として利用されるようになった・・・。

だが明治43年の大洪水の時には締切りを開削し、
洪水を鹿島灘へ落として放水路としての役割を一度!だけ、
果たしたとされている。

シ:へぇ〜、人々の役に立てようと思ってやったことも、
  なかなかうまくいかないもんだね〜。

H:事件は会議室で起きているんじゃなーい、
  ってことかな。
  
シ:現場で起きているんだ〜てか?
  その繰り返しなんだね〜。

H:おっと、まだ歴史の話は続くよ。

シ:よ〜し、(桜町で)みんなに話してくるね〜。




Hiro's profile
W.B.S.プロ。
霞の風雲児を目指して早10年。
あの山田塾の司令塔的存在で
無類の釣り好き。
アメリカ事情にも精通している。 
右投げ右打ち。






舟子のシオカラトンボ profile
霞ヶ浦の畔に住んで早4年?
食事をすると
すぐ寝てしまう癖がある。
風の吹くまま気の向くまま
霞ヶ浦を飛び回る。
近眼、メガネ使用。